サンボマスターが教えてくれた誰かを疑っちまうというおはなし
「僕らはいずれ誰かを疑っちまうから。せめて今だけ美しい歌を歌うのさ。」
そうサンボマスターが歌っていた。
日々、人として生きていると心のどこかで誰かを疑ってしまう局面に陥ってしまうことがあると思う。
何を隠そう、僕もその中の一人である。
人生というものが上手く動いていない時ほど、疑いという凶悪な悪魔が僕らの耳元で艶やかな声で囁いてくるのだ。
「それは果たして、お前の責任か?」
そうやって他人様を疑い、誰かの責任にして日々をのらりくらりと生きていくことなど造作もないことである。
何かあれば、自分の責任ではなく、人の責任にして逃げればよいのだから。
「これは誰誰さんに言われました」
「教わっていません」
「聞いていません」
「あいつが失敗したからこんなことになったんだ」
そうやって逃げることは誰でもできる。
むしろ、心が瀕死の状態に置かれているときはこうやって人様の責任にして、逃げることも必要ではあると思う。
そうしなければ赤子のようにか弱く、壊れやすい心というやつはすぐにダメになってしまうから。
しかし、万事整った状態で人様のせいにして逃げるということはいさささどうなのであろうか。
いや、僕は他人のせいにして逃げることが悪いことであるというのを指摘したいわけではない。
ただ何度もいうが、
しんどければ、逃げていいと思う。
問題は逃げ続けることであり、逃げればそこにまた帰ってくればいいのだ。
もちろん、いろいろな人に迷惑をかけるだろう。
いろいろな人を心配させるだろう。
いろいろな人を悲しませるかもしれない。
いろいろな人を怒らせるかもしれない。
それでも、自分が折れなければ帰ってきてよいのだ。
人を疑ってしまうことも致し方ない。
ただ、人を疑い、人のせいにすることは
格好いい
格好悪い
結局のところ、格好いいか、格好悪いかなのだ。
格好悪いことをしてしまっても、そんな昔の自分を笑ってやれるくらい格好良くなればよい。
常に格好いいほう、大変な方を選ぶことは正直言って疲れることであると思う。
今は格好悪くても、最終的に格好良くなればいいのだ。
さて、今日の僕自身は格好いい選択をできるのだろうか。
この日の僕は格好いい気がするのである。
おしまい