毛なし暮らし

毛なし暮らしな生活

GReeeeN10周年とはなんの関係もない話

「染まる」ということは「慣れる」ということだ!!

 

 

と性懲りもなく一丁前の口をきいたことは昨日のことだったであろうか。

 

 

まだ記憶に新しい出来事であったよう思う。

そんな僕は一丁前の口をきいて、しかも東京というお洒落スポットに染まっている僕をご覧くださいなどと不躾な物言いをしたくせに、すでに大阪という街に僅かばかりの「ホームシック」という「郷里に恋い焦がれる」といういかにも恥ずかしい現実に直面しているのである。

 

 

部活の後輩に「見とけよ!」と威勢よく言い放ったのに全然何も出来ず、恥ずかしさのあまり「今日は調子が悪いから。」などと体調不良を理由に、先輩が先輩であるべくして作り上げた見せ場を、自らの手で辞退するカッコ悪い口だけの先輩のような面持ちでこの文章に向き合っているのだ。

 

 

 

僕の生まれた町は本屋も駅もない、なんならイノシシが出るような土地であるのであるがそんな田舎に帰ると、僕のように東京に染められた人間の服装というものは場違いな格好であるかのような錯覚を味わうことが多々ある。

 

 

 

まるで裸族の村に外界から文化や文明が発達し、服を纏った西洋人が紛れ込んでしまったかのような、自分の身にまとっているモノの方が時代の先をいっているはずであるのに、「果たして私はこの土地で存在してよいのであろうか」と後ろめたい気持ちになるのである。

 

 

 

なぜこうも田舎という土地はヤンキーファッションというようなキティちゃんサンダルを履いたような若者たちが今もコンビニの前でたむろしているのであろうか。

 

 

おそらく、銀座という街でそのような格好をして歩いていると、自分がいかにピエロとしてその場所に存在しているかがわかるように、両手に抱えきれないほど街中の視線を抱えてしまっていることに気づくであろう。

 

 

若者の最先端である渋谷や原宿という街においてもその視線の量は瞬く間に、お正月にバーゲンセールにいったであろう家族連れの荷物と同じかそれよりも膨大な量が自分に注がれていることに気づくであろう。

 

 

田舎でこのように都会では滑稽とされるファッションがトレンドを占めているのは個人的な意見ではあるが、土地独特の時間の流れというものがそこには確かに存在しているからであるからではないだろうか。

 

 

東京においても、渋谷、池袋、原宿、銀座、有楽町。

 

 

それぞれにそれぞれの時間が流れ、それぞれの土地に合った服装をしている人たちが集まっている傾向にあると思う。

それこそが土地の時間であり、土地が持つ力なのではないだろうか。

 

 

なぜかレポートを書いているかのような考察を始めてしまったのではあるがこれについて序論、本論、結論を付けるとなると膨大な量になってしまうので、

 

 

「土地には土地の時間が流れているんやで」

 

 

というようないかにも頼りない言葉のみで終わらしたいと思う。

 

むしろ、ここまで書いてきたはいいが徐々にこの田舎のファッションはどうだという論点に対して、

 

 

面倒になってきている僕がいる。

 

 

5分前の自分のすごくぶん殴りたい。

こんなとりとめのない話を始めようとした僕を殴りたい。

 

その気持ちで心がいっぱいになったところでこの中途半端な文章は幕を閉じようと思う。

 

 

だって面倒なんだもん←

 

 

 

GReeeeNの皆様が公の場に初登場したことはファンの皆様にとってすごく心待ちにしていたことであると思う。

 

それでは渋谷という土地に流れる時間の中に身を任せている、誰にも心待ちされていない僕の写真でも載せておこうと思う。

 

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ちなみにこのチャリは知り合いのチャリであって僕のチャリではない。

 

 

僕の愛車は紛れもなくママチャリである。

 

昨日と同じ服装であるのは、仕事をしようと意気込み夜中のいい時間に漫喫に籠りだしたからである。