何もないというのは、少しおこがましい毎日のお話
先日、「この世界の片隅に」を映画館で見たのである。
劇場で映画を見るということは久しくしていないが、劇場で観てよかった。
心の底の底よりそう思った次第である。
簡潔に述べると戦争のお話である。
幸せとは程遠い戦争のお話である。
作品は個人の裁量で楽しめばいい主義なので作品に関しては言及しないことにするが、何もない毎日というのは幸せなのかもしれない。
僕らは生きていく中で何もないことを忌み嫌い、刺激の中で過ごそうと躍起になっているように思う。
ハロウィンやクリスマスや年越しやバレンタインや様々なお祭りごとの度に、そこに自分の存在を確かめ、そこにいることで非日常を楽しんでいる。
お祭りごとはお祭りごととして、盛大にやって盛大に楽しめばよいと思う。
他人様に迷惑をかけない限り、僕はなんでもやっていいと思うたちなので盛大にはしゃいで踊る阿呆になればよいと思う。
踊る阿呆と言えば、僕にとって印象深いものは
森見登美彦作『太陽の塔』の中で巻き起こる「四条河原町ええじゃないか騒動」である。
ええじゃないか、その一言で街がお祭り騒ぎになる。
なんと愛おしくて、狂おしいのであろうか。
もしも、ドラえもんの道具が手に入るのであれば「絵本入り込み靴」を頂戴したいものである。
その靴を手にして、新しくおニューのスニーカーを買ってもらった小学生のようにウキウキした気持ちでええじゃないか騒動の渦中に飛び込んでいくのである。
ただ、「絵本入り込み靴」が小説の中に入れるかという疑問はあるが、僕は全身全霊で「ええじゃないか」と叫びたいのだ。
このように、僕のような家にいることが好きでパーティーピーポーな見た目からは反して、根暗である人間もお祭りごとになると沸き起こるのだ。
「この世界の片隅に」に話を戻すと水の中に長い時間潜っているときのように息が苦しくなるような作品であったことは確かである。
しかし、僕はこの苦しさの中にゆるりとした幸せが混在している感覚を覚えたのである。
僕らが普通の日常と呼んでいるものは、普通という言葉で片付けるには甚だもって勿体無いものであると思う。
非日常的なものというのは間違いなく楽しいものである。
しかし、日常の惰性や何もないことこそ本当に楽しまなければならないのではないだろうか。
何もない毎日が幸せであれば、何もない人生は楽しくなることは間違いない。
いや、何もない毎日というのは少しばかり、違う。
この時代を生きる一個人として「何もない毎日」というのは「何でもないけど、最高に幸せな毎日」の略語であってほしいと願う。
今日も僕にとって「何もない毎日」が始まるのだ。
おしまい