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染まるというお話

昨日、夜行バスに揺られに揺られ、新宿で朝を迎えた。

東京に着き、なんら面白みのない1日が始まった。

 

 

実際は、生きているだけでおもしろいのだけれど。

 

 

大阪と一つになりたい思いから、創世のアクエリオンの主題歌が脳内リピートされるなか道頓堀川に対して「あなたと合体したい。」と懇願し、飛び込みかけた昨日の僕はどこにいってしまったのであろうか。

 

今は静かに表参道という、いかにも東京お洒落スポットという街で仕事をしているふりをして街行くお洒落な人たちを窓辺から観察することに精を出している。

 

そんなお洒落かぶれな街、もといお洒落な街はたくさんの人で賑わっているのだ。

この中のほとんどが地方出身の人たちだと思うと、僕もこのお洒落スポットに一歩足を踏み入れようと地方というジャングルから抜け出し、文明開化の威風堂々たる煌びやかさに魅了された類人猿に他ならないのである。

 

 

 

ここでふと、「染まる」という言葉が脳裏をよぎる。

 

 

毎年、地元に帰ると高校の同級生で吉本の芸人の「ゆでたかの」に会うのだが決まりきって

 

「おまえは東京に染まってもうたな。大阪の心はどこにやった?」

 

 

そう、問われるのだ。

 

確かに僕は6年の歳月をかけて東京に慣れたと思う。

上京してきて最初の一週間は「標準語」というものが気持ち悪すぎて、電車の中やいたるところで四六時中、イヤホンを耳にさし、ウルフルズを聴きながら大阪という「天下の台所」に思いを馳せていたものだ。

 

しかしどうだろう。一週間を過ぎ、東京の生活にも慣れてきたころ僕はイヤホンなしでも街中を歩けるようになった。

人間の順応能力というものはすごいものであんなに毛嫌いしていたものでさえ、一週間も経てば慣れてしまうものなのである。

 

それになんと、舞台上で僕は標準語で話しているではないか。

そして、今や日常会話のほとんどを標準語が担っている。

たまに関西弁で話すときもあるが、それは同郷の出身者と話すときや、ふいにイントネーションが戻ってしまうくらいでほとんどが標準語である。

 

「染まる」という言葉に話を戻そう。

 

僕は「染まる」という行為は決して悪いことではないのではないかと感じる。

それは人間が生きていくために環境に合わせて「慣れる」ということであり、実際に「染まっている」のは僕の確固たる「大阪人」さらには「岸本学」としての外側であり、核である「岸本学」は東京に出てくる前の「岸本学」と何ら変わりなく適当な人間である。

 

つまり、玉ねぎの皮の3枚ほどが「染められた」ところで内側は玉ねぎのままである。

それと同様に、「岸本学」の皮が3枚ほど「染められた」ところで内側は岸本学のままであるのだ。

実際は人間の皮を3枚ほど染めるというのは身の毛もよだつ例えであるなと思う。

むしろ、人間に3枚も皮なんて存在するのであろうか。

 

表皮があり、真皮があり、皮下組織が存在するから厳密には3枚ほど染めても問題はないかもしれない。

 

というどうでもいい話は隅っこに置いておくとして「染まる」ということは「慣れる」ということに他ならないのではないだろうか。

 

というわけで表参道という街に染まりに染まって、「お前、誰やねん!!」という感じの僕の写真でも載せておこうと思う。

 

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