三日坊主の僕が三日坊主でなくなったおはなし
ブログを書くのは久しぶりになるだろうか。
3日ぶりの更新であると思う。
しかし、今までの僕ならブログを書いているという行為を忘れて1ヶ月後に「そういえば!」となっていたと思うので僕にとっては大きな一歩であると思う。
そうだ、あの誰もが知っていて誰もがおいちゃんという愛称で呼びたくなるであろう宇宙飛行士のニール・アームストロングが言っていた。
「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」と。
そつなのだ。これは人から見たら小さな一歩だが、僕自身にとって大きな飛躍なのだ。
このように自身の行いと名言を絡めることによってさも、自分という人間はいかにすごい人間であるかという誤った錯覚に陥ることが出来る。
そうだ、これが自己陶酔というやつだ。
しかし、勘違いをしてはいけない。
僕自身はすごい人間であるとは思っていない。
むしろ、まがいもないまがい物であることを自負している。
クソみたいなライムを踏んでしまった。
これもまた、僕のまがいもないまがい物としての自尊心がこのようなかっこいい言葉を書きたがるのだろう。
ただ、1分ほどは名言と自身を絡めることによる自己陶酔に陥ることを容赦してほしい。
だってちょっとくらいすごい人間だって思いたいじゃない(`・ω・´)
こうやって自分をすごい人間だと錯覚することでこれからもブログを続けていけるような気がする。
とまあ潔くこんなグダグダした感じでこれからもブログを更新して行きたいと思う。
明日は書くよ!
絶対ね、絶対だよ!!
ロックと危ない奴と前前前世のおはなし
人は思ったより見るもの、聴くもの、知るものをジャンル分けして生きている。
最近、僕はRADWIMPS「前前前世」を無性に聴きたくなるのだ。
こんなことは今までにはなかった。
中学高校、僕の青春と呼ばれる時代はむしろRADWIMPSなんて嫌いだった。
なんだあの中二病っぽい音楽なんて思って聴かぬふりをしていたものである。
僕が汗水たらしてクラブ活動(サッカーであるが)に励んでいた時期はコブクロが好きだった。
今の僕からしたら考えられないほどバラード調の音楽に傾聴していた。
いつからだろう。恐らく、受験勉強を始めたころだったであろうか。
ONE OK ROCKが無性に好きになってひたすら「努努」を貪るように聴いていた記憶がある。
そこからロックやパンクと言われる音楽しか聴かなくなった。
BACK HORN
銀杏ボーイズ
高橋優
マスミサイル
そういったロックのカッコいい人たちが僕の人生の大部分を占めていた。
このころの僕はロック至上主義でロックというものこそが音楽である。
そう思って公園のベンチなんかでイヤホンを耳に差し込んで、ロックカッコいいと一人でほくそ笑んでいたものである。
今思えば、相当危ない奴である。
一人ぼっちでニヤニヤしてていいのは小さな子供くらいである。
大人が思い出し笑いなんかしようものなら、今の世の中は思いのほか厳しい態度で罵詈雑言や陰口なんかを浴びせてくる。
僕は大人こそニヤニヤして生きていくべきものであると思っているのに。
世の中のそういった態度はなんだか納得がいかない。
これが人が思いのほかやってしまうジャンル分けというやつなのであろう。
まず、「自分」と「それ以外の人間」というジャンルがある。
そこから「自分が好きな人」「自分が嫌いな人」「どうでもいい人」
というジャンルが出来上がってくる。
ここから幾重にもジャンル分けというものは派生して一個人でしかわからないカテゴリーの分類が繰り広げられる。
その中に「公園で一人ぼっちでほくそ笑むやつは危ない人間」というジャンルも存在するのである。
実際、危ない人間であるかどうかなんて、直接話してみないとわからないものである。
僕なんて「公園で一人ぼっちでほくそ笑んでいる」が至って、「善良な市民」であるという謎の自負がある。
しかし、世の中が決めたジャンルや個人が決めたジャンルに当てはめてカテゴリー分けをしてしまえば「未分類」というジャンルがなくなる。
以前、書いたことがあるが「人間はわからないということが一番怖い」のだ。
だからわからないことに対して、幽霊だ、妖怪だ、宇宙人だなどと自分の中でわかったつもりであるカテゴリーの中に当てはめる。
音楽にしてもそうだ、僕はRADWIMPSというのはどこか「中二病」っぽい音楽として青春時代はカテゴライズして生きてきた。
だから「中二病」であるということが恥ずかしかった僕からしたら近づきたくない存在であった。
しかし、大人になってそのカテゴリーを取っ払ってみるとこんなにも毎日のように聴きたくなるものなのだ。
おそらく、僕の中で「RADWIMPS=中二病」というジャンル分けがなくなったのであると思う。
こうしてジャンル分けすることで安心して過ごせる自分がいるわけだが、実際そのものをよく知りもしないで自分の中にあるジャンルに当てはめてはいないだろうか。
人も音楽もちゃんと向き合ってみると自分の中にすっと入ってくるものであるかもしれないのに、ジャンルという壁に阻まれて自分の元へ歩いてこれないだけかもしれない。
ジャンルではなくそのものの価値をしかと見極めたい今日この頃なのである。
このわんこはマルボロというジャンルに分類されている。
サンボマスターが教えてくれた誰かを疑っちまうというおはなし
「僕らはいずれ誰かを疑っちまうから。せめて今だけ美しい歌を歌うのさ。」
そうサンボマスターが歌っていた。
日々、人として生きていると心のどこかで誰かを疑ってしまう局面に陥ってしまうことがあると思う。
何を隠そう、僕もその中の一人である。
人生というものが上手く動いていない時ほど、疑いという凶悪な悪魔が僕らの耳元で艶やかな声で囁いてくるのだ。
「それは果たして、お前の責任か?」
そうやって他人様を疑い、誰かの責任にして日々をのらりくらりと生きていくことなど造作もないことである。
何かあれば、自分の責任ではなく、人の責任にして逃げればよいのだから。
「これは誰誰さんに言われました」
「教わっていません」
「聞いていません」
「あいつが失敗したからこんなことになったんだ」
そうやって逃げることは誰でもできる。
むしろ、心が瀕死の状態に置かれているときはこうやって人様の責任にして、逃げることも必要ではあると思う。
そうしなければ赤子のようにか弱く、壊れやすい心というやつはすぐにダメになってしまうから。
しかし、万事整った状態で人様のせいにして逃げるということはいさささどうなのであろうか。
いや、僕は他人のせいにして逃げることが悪いことであるというのを指摘したいわけではない。
ただ何度もいうが、
しんどければ、逃げていいと思う。
問題は逃げ続けることであり、逃げればそこにまた帰ってくればいいのだ。
もちろん、いろいろな人に迷惑をかけるだろう。
いろいろな人を心配させるだろう。
いろいろな人を悲しませるかもしれない。
いろいろな人を怒らせるかもしれない。
それでも、自分が折れなければ帰ってきてよいのだ。
人を疑ってしまうことも致し方ない。
ただ、人を疑い、人のせいにすることは
格好いい
格好悪い
結局のところ、格好いいか、格好悪いかなのだ。
格好悪いことをしてしまっても、そんな昔の自分を笑ってやれるくらい格好良くなればよい。
常に格好いいほう、大変な方を選ぶことは正直言って疲れることであると思う。
今は格好悪くても、最終的に格好良くなればいいのだ。
さて、今日の僕自身は格好いい選択をできるのだろうか。
この日の僕は格好いい気がするのである。
おしまい
何もないというのは、少しおこがましい毎日のお話
先日、「この世界の片隅に」を映画館で見たのである。
劇場で映画を見るということは久しくしていないが、劇場で観てよかった。
心の底の底よりそう思った次第である。
簡潔に述べると戦争のお話である。
幸せとは程遠い戦争のお話である。
作品は個人の裁量で楽しめばいい主義なので作品に関しては言及しないことにするが、何もない毎日というのは幸せなのかもしれない。
僕らは生きていく中で何もないことを忌み嫌い、刺激の中で過ごそうと躍起になっているように思う。
ハロウィンやクリスマスや年越しやバレンタインや様々なお祭りごとの度に、そこに自分の存在を確かめ、そこにいることで非日常を楽しんでいる。
お祭りごとはお祭りごととして、盛大にやって盛大に楽しめばよいと思う。
他人様に迷惑をかけない限り、僕はなんでもやっていいと思うたちなので盛大にはしゃいで踊る阿呆になればよいと思う。
踊る阿呆と言えば、僕にとって印象深いものは
森見登美彦作『太陽の塔』の中で巻き起こる「四条河原町ええじゃないか騒動」である。
ええじゃないか、その一言で街がお祭り騒ぎになる。
なんと愛おしくて、狂おしいのであろうか。
もしも、ドラえもんの道具が手に入るのであれば「絵本入り込み靴」を頂戴したいものである。
その靴を手にして、新しくおニューのスニーカーを買ってもらった小学生のようにウキウキした気持ちでええじゃないか騒動の渦中に飛び込んでいくのである。
ただ、「絵本入り込み靴」が小説の中に入れるかという疑問はあるが、僕は全身全霊で「ええじゃないか」と叫びたいのだ。
このように、僕のような家にいることが好きでパーティーピーポーな見た目からは反して、根暗である人間もお祭りごとになると沸き起こるのだ。
「この世界の片隅に」に話を戻すと水の中に長い時間潜っているときのように息が苦しくなるような作品であったことは確かである。
しかし、僕はこの苦しさの中にゆるりとした幸せが混在している感覚を覚えたのである。
僕らが普通の日常と呼んでいるものは、普通という言葉で片付けるには甚だもって勿体無いものであると思う。
非日常的なものというのは間違いなく楽しいものである。
しかし、日常の惰性や何もないことこそ本当に楽しまなければならないのではないだろうか。
何もない毎日が幸せであれば、何もない人生は楽しくなることは間違いない。
いや、何もない毎日というのは少しばかり、違う。
この時代を生きる一個人として「何もない毎日」というのは「何でもないけど、最高に幸せな毎日」の略語であってほしいと願う。
今日も僕にとって「何もない毎日」が始まるのだ。
おしまい
疑問と不安と妖怪などのおはなし
なぜこんなことをしているのか?
なぜあの人はああなのだろう?
なぜ僕はこんな人間なのか?
なぜアスファルトは黒なのか?
なぜ空は青いのか?
「なぜ」と思うことを最近、すごく大事にするようになったと思う。
なぜというのは疑問を抱いていることに他ならない。
昔、何かの本で読んだことがある。
「わからないことがあると不安だから、人間というやつはわかった気になるのだ」と
確かに、わからないというのは不安である。
得体の知れないものに恐怖心を抱くのは人として正常である証かも知れないなと思うほどである。
得体がしれないから、それが幽霊であり、宇宙人であり、妖怪と形容されるのだ。
得体がしれないから、何か自分が認識出来る言葉としてその現象を形容したいのだ。
なぜというやつは厄介である。
なぜというやつが頭の中をぐるぐると徘徊しているだけで気になって眠りにつくことすら許されないのだ。
しかし、なぜを不安がり、なぜを遠ざけるのは得策でないような気がするのだ。
不安を甘受出来るくらいの度量を兼ね備えた人間になりたいものである。
とどのつまり、なぜという状況を楽しんでいこうと思うのである。
なぜ、Finやおわりという文字よりもおしまいという文字の方が僕の中にすっと入ってくるのかを考えながら寝ることにする。
おしまい
成人の日だもの。大人先輩として、それは真面目にもなる。
新成人の皆様、おめでとうございます。
成人の日。
大人になる日。
大人と呼ばれ、「大人」という二文字に「責任」という二文字がくっついてくる日。
大人になんてなりたくないと昔はずっと思っていた。
大人なんてダサいなんて子供の頃の僕は斜に構えていた。
社会の歯車に入ると抜け出せないような気がして、自分の道を歩きたいなどと
戯言をぬかし、大人から僕は逃げていた。
そうは言っても「大人」という肩書は背後霊のように背中から付きまとってくるもので、大人になりきれていないような若造の僕は何がしたいか迷っていた気がする。
しかし、いざ大人になってみると大人というだけで遊び方が変わり、バーに行き、お酒を飲み、たくさんの知り合いが出来た。
大人というやつも悪くはないかであると思ったのである。
ある日、実家に帰省した時の事、詳しいことは忘れたが尊敬すべき、母上と軽いすごく軽い言い合いをしたのを覚えている。
その時、母上に対し僕が
「もう大人やもん」
というと母上は僕の言葉の調子よりもワントーン上がった声で
「あんたはいつまで経っても、母さんの子供や!」
そう叱咤された。
両親にとって、僕は大人なんかでなくいつまでも「子供」だということに気づいて、「大人」という二文字に嫌気がさしていた僕は、少し気が軽くなったような気がした。
成人の日は大人になる初めての日であるが、同時に生んでくれて、育ててくれてありがとうと親に感謝する日でもあると思う。
いつもは生意気しか言わない若造で、まだまだ大人になりきれてはいない「子供」な僕ではあるが
今日は少しだけ、ほんと少しだけ「大人」になってみようと思う。
柄にもなく真面目なことを書いた自分に対して、むずがゆくなっているので最後に「二十歳と僕」というタイトルをもじった「イタチと僕」というイラストで〆たいと思う。
かなりスベっている気もするがそんなことは気にしないのである。
なぜなら、僕は「おとな」だもの。
おしまい
孤独な闘いだとトムソーヤ少年は呟いたお話
ブログというのは孤独な闘いであると1月にトムソーヤ少年が呟いた。
この中にこのブログを読んでいる方はいらっしゃいますでしょうか?
まるでこの中にお医者さんはいませんか?
といる確率が低いであろうエコノミークラスでひたすらお医者様を探し続けるようだ。
そう、孤独な戦いである。
果たして、こんな記事を読んでくれている人がいるのであろうか。
はたまた、誰も読んでくれていないのであろうか。
そんな自問自答を抱えながら、日々脳内に分泌されたドーパミンの如く、僕の頭の興奮の渦中にいる言葉たちを無為所得に書き綴るのである。
ここでいう無為所得とはだらだら働きもせずに暮らすことという意味であるが、僕は働いていないわけではない。
ただ、なんとなく。ほんとなくとなく難しい言葉を使いたい病なのである。
合コンにいけばあえてビジネス用語を使って話して自分のことを賢く見せようとするメンズたちは勝負と言わんばかりに清楚な格好を身にまとった女子たちに嫌厭される羽目になることは自明の事実であろう。
しかし、僕のそれとは少し違う。
日本語が略され「めっちゃ」という言葉が「め」という表記に変わり、「めっちゃ可愛い」のことを「めっかわ」というヤングピープル世代に対抗すべく、白羽の矢が立てられたのだ。
わかりやすいように言い換えると
日本語いいね
↓
熟語カッコいい
↓
四文字熟語はもっとカッコいい
↓
(もしかしたらモテる?)
↓
難しい言葉を使いたい病
といういかにも単細胞らしい現代に生きる幾多の悩みを抱える現代人とは程遠い単純明快な図式が出来上がる。
とはいっても言葉を略すという行為に対して「警笛を鳴らす」つもりは毛頭ない。
ただ、僕は難しい言葉を使いたいという一個人の欲望がそうさせるのだ。
さらには難しい言葉を使うことでもう少しモテる大人になるかもしれないという不純な下心が渦巻いているのである。
先ほど合コンに行ってビジネス用語を使う男性諸君とは少し違うといったがやはり僕の中にも
結局、下心が渦巻いているのである。
これは男の性ともいうべきであろうか。
しかし、この性に負けることなく言葉と向き合わねばならない。
なぜならブログを見ている人がいなくともブログを書き続けるという一見矛盾したようで本当に生産性のない業を背負って生まれた来たのである。
生まれた時からというのはちょっとばかり言いすぎたかもしれない。
正確には、ブログを書こうと思い立った去年のクリスマスあたりからだ。
その頃から僕にはカルマが付きまとうようになった。
カルマは付きまとわない。
カルマは背負うものである。
因縁を背負って生きていかなければならない。
しかしこの業を断ち切ることは思いのほか簡単である。
ただ、ブログをやめればいいのだから。
しかし!!僕のカルマがそうはさせてくれない。
くそぅ!!カルマの奴め!!
お分かりだろうか、後半はもうただただカルマが言いたいだけの病にかかってしまったようである。
だってカルマって言いたくなるんだもん!
そんなことを僕の中にいるトムソーヤ少年が囁いてくる。
本当にふざけた話である。
こんなブログを読んでくれている人がいれば、あなたは僕にとっては神のような存在である。
これからもこの支離滅裂な文章を読み進めていただけるとありがたい。
そして、SNSなんかで拡散していただけると天にも昇りそうな気持ちで僕は一日を過ごせることとなるだろう。
いつもお付き合いいただき、本当にありがとうございます。