読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

義理だチョコだとそんなのは失礼だというおはなし

バレンタインの話をしようと思った2にちが過ぎてしまった。

 

皆様は最愛の人にチョコを渡したり、もらったりしましたか?

ちゃんと告白は出来ましたか?

どうでもいいけど付き合い上、チョコを渡さなくてはいけない職場の方々に義理チョコは渡せましたか?

 

 

僕はもらったかって?

そんなの決まってるじゃない。

 

 

 

 

 

 

 

母上からバレンタインが送られて来ましたよ。

 

 

f:id:bunamato_mosiki:20170216152000j:image

 

 

ありがとう母ちゃん!

ありがたいオカン!!

ありがとうございますお母様。

 

 

 

そんな感じのいつもと変わらぬバレンタインを過ごしたわけだ。。。

 

 

 

 

 

まだ今年いっぱい受け付けているよ。

義理チョコでもいいからおくれよ。

 

 

 

 

 

 

そんな悲しい男の非常にまで無情な声は誰にも届かぬままそこらへんの道端に転がっていくのは目に見えている。

 

 

 

 

だが、言ってみなければわからないではないか!

 

 

 

もしかしたら、2月末に怒涛の義理チョコ連打が来るかもしれない。

 

 

 

まさに世は大義理チョコ時代!!

 

 

 

 

・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

かっこ悪さしかないのである。

 

 

 

 

 

 

ところで義理チョコを渡す女子たちの精神状況がどうなっているのかすごく気になる。

義理チョコを渡すにしてもお金という資本主義経済が生み出した、慣習が付きまとうことになる。

 

 

しかも、義理チョコとはいえ!

大して興味もない男とはいえ!

プレゼントをするわけだ。

 

 

少しは何を送ればいいのか?

そんなことを考える時間もあるだろう。

その考える時間と買いにいく手間となけなしのポケットマネーを使って女子たち!いや、淑女たちはチョコレートを買いに行くのである。

 

 

 

男性諸君、そんなにあなたのことを思って義理の気持ちを渡してくれる女子たちはなんて素晴らしいのであろうか。

 

 

つまりだよ。つまり、義理チョコを貰えないというのは女子たちと上手な人間関係を築けていないのではないだろうかと思うのだ。

 

 

 

 

さあ!君はなんか貰った?

 

 

 

 

僕は母上からいただいた1つである。

今後、日頃から淑女たちには可愛いよー。もうほんと可愛いなどと思ってもいないことをいう努力をしていきたいと思う。

 

 

 

ではまた会いましょう。

f:id:bunamato_mosiki:20170216153447j:image

バレンタインと人間関係は密接だというおはなし

久しぶりに現れました。岸本です。

寒さが身に応える2月上旬、皆様はお元気にしていますか。

 

そういえば、もうすぐバレンタインという一大イベントがやってくるらしいが、このイベントは意中の相手がいる女子が心を込めて、作ったチョコレートをほほを赤らめながら「義理じゃないんだからねッ!!」なんてツンデレな感じで渡すイベントであると僕なんかは記憶している。

 

 

「義理チョコなんていらないぜ!!」

 

 

そうカッコよくいったつもりになっている男性諸君、身の程を知ってほしい。

そんなカッコいことを言おうがそんなスタンスでは誰も貴様には、いやあなた様にはチョコレートなんて渡さないであろう。

 

 

詳しくはまたバレンタインの時にでも書きたいと思うが、義理チョコをもらえる人間というのは人間関係を構築する術に長けている人物であると思う。

なぜなら、義理チョコをあげるにもお金というものはかかる。

そのお金をあなたに使ってもよいか。

そうやって、女子たちは考えているのではないだろうか。

本当にここらへんのことに関してはバレンタインの時に書くことにしよう。

誰にもチョコレートをもらえないであろう僕がチョコレートを渡し渡されるカップルやカップル未満のち幸せな風景をしり目につらつらとあることないこと、書きなぐってやろうかと思うのだ。

 

まあ長々とバレンタインが始まる前にバレンタインの話をしても、バレンタインと縁のない男性諸君、好きな男性がいない淑女の皆様からしたら興ざめであろうからここらへんでバレンタインの話は終わることにしよう。

 

 

といったわけで今日は渋谷のとあるカフェについてなぜか無性に書きたくなったのでブログを久しぶりに書いてみることにするのだ。

 

人間関係

 f:id:bunamato_mosiki:20170212151403j:image

 

 

なんて秀逸なネーミングセンスであろうか。

 

渋谷に行く用事があるとあいま時間でふらふらと引き寄せられては仕事をしているカフェの名前である。

 

ただただみんな一回行ってみてほしい。

 

人間関係に悩んだときに行くもよし。

 

ふらーっと立ち寄るもよし。

 

それよりも周りの人間関係を見るのにもってこいの場所であることは間違いない。

 

恋愛相談をする人たち。

野球の話をする人たち。

学校だりーとか言いながら話す人たち。

熱い話をする人たち。

 

いろんな人たちの人間関係がそこには転がっているのである。

 

こう考えてみるといろんなお店に入って人のことをみるのが少しだけ楽しくなってくる。

 

今日もふらーっといってみようかな。

 

濡れて、尖って、ありがとうというおはなし

「感謝」ということについて書いていこう。

 

以前ブログの末尾でそのようにお伝えしたかと思う。

 

そう今、僕は猛烈に「感謝」したくてたまらないのだ!

 

f:id:bunamato_mosiki:20170205143536j:image

 

感謝したいというのは押しつけがましいかもしれないが以前よりもいろいろなことに「感謝」するようになったと思う。

 

僕が上京したての頃は今よりももっともっと尖っていた。

もうとげとげであった。

スーパーマリオブラザーズに出てくるトゲゾーの如く、踏もうとしてくる人のライフを削っていくような棘を体中に帯びていた。

 

そして何に対しても噛みついていたようなそんな若造だったように思う。

 

そんな上京してからの僕を知る人からすると最近の僕は丸くなったようだ。

もうマリオ64のワンワンのようにいろいろなものに噛みつかなくなったし、トゲゾーのような棘はなく地下のステージに出てくるメットのように甲羅がつるつるなのである。

 

それもこれも、東京に来てから自分一人では何もできないということに気づいてしまったからであると思う。

誰かに手を差し伸べられて、僕は生きているのだなと一人暮らしをするようになってから、そして色々なことに挑戦するようになってから気づくようになったのである。

 

みんなに支えられて、岸本学という人間は生きていくことが出来るのだと深く痛感した。

 

だから、今まで出会ってくれた皆様に僕は心のそこから感謝したい。

 

 

尖がっていた僕を見放さずに、見守ってくれた皆様に精一杯ありがとうと伝えたいのだ。

 

 

恥ずかしいことをつらつらと書いているが僕が今日ここで伝えたい感謝というのは今言ったようにそんな大それた感謝ではないのである。

 

 

もう3年くらいになるだろうか。

僕は一冊の本を本棚の奥深くに買ったはいいが読まずにしまっていた。

 

読みたくて買ったのに読むタイミングがなかったのか。それとも読むことが憚られたのか。なぜかは詳しく覚えていないが読む機会を見失ってしまったのだ。

そうしているうちに、その本を買ったことさえも記憶の彼方に消し去られ、先日部屋の掃除をしているときに久しぶりにその本を見つけた。

 

いい機会だと思ってその本を読むことにしてみた。

 

その本にはこう書かれていた。

 

 

 

「毎日、感謝しながら靴を磨きなさい」と

 

 

 

僕はその一節を読んだ夜、猛烈に感謝しながら靴を磨いたのを覚えている。

 

 

自分の商売道具を磨かないのはなぜだとその登場人物は問う。

 

 

そうだ、鼻の長いゾウが問うのだ。

(ゾウは基本的に鼻が長いのだが。)

 

 

 

もうわかった方もいるのではないだろうか。

 

 

僕は「夢をかなえるゾウ」を読み始めたのだ。

f:id:bunamato_mosiki:20170205143258j:image

 

 

 

そして、靴を磨き始めたのだ。

 

 

靴を磨くという日常がない方からしたらなんだそれはと思うかもしれないが一度、やってみてほしい。

 

なんでこんなにお前は汚れているのだ。

こんな僕ですら毎日、風呂に入っているのになぜこうもお前は風呂にも入らず、シャワーも浴びず、なんなら濡れたタオルで体を拭くこともせずにどろだらけになっているのかと思うことであろう。

 

靴を磨き始めてから、自分の持っているものに責任を持つという感覚が少し身体の中にしっくりと馴染んできた気がする。

 

 

責任をもって自分が買ったもの、もらったものすべての道具に愛着を注いで感謝していこうと思う次第である。

 

 

いつも僕を遠くの町まで連れ出してくれる靴に今日も感謝しながら濡れたタオルでふきふきしたいと思う。

f:id:bunamato_mosiki:20170205143308j:image

フレンドと国民とめくるめく毎日のおはなし

明日、絶対書く!!

 

 

 f:id:bunamato_mosiki:20170126161053j:image

 

と言って何日が経ったろうか。

 

 

 

めくるめく毎日が華やか過ぎて僕にとっては思い立った日が明日のようなものだ。

 

 

いや、決して言い訳をしているのではない。

 

 

明日といえば次の日だと紳士淑女の皆様はお思いであろう。

 

 

しかし、明日というのは今生きている時間の連続の延長線上にあるのである。

 

 

つまり、僕がめくるめく華やかな毎日を過ごしている間にいつの間にか今日という明日が来ていたのである。

 

 

 

そうだ、明日という考えはもうやめようではないか。

いつも今を生きていたいのだ。

今この瞬間が華やかなものであればいいのだ。

もしかしたら、それは華やかな今ではないかもしれないが、その今が輝いて入ればいいのだ。

未来など不確定なものを信じるのではなく今生きているこの瞬間を信じようではないか!!

 

 

 

と僕は自問自答し始めているのはお分かりだろう。

 

 

 f:id:bunamato_mosiki:20170126161102j:image

 

 

 

 

 

 

ここで一つ言わしてほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 f:id:bunamato_mosiki:20170126161119j:image

 

 

 

 

申し訳ない!!!

いや、明日だよ。明日って書いたのよ。

何が明日は今という延長線上にあるから明日の概念を無くせだよ!

いや、明日はどう足掻いても明日だよ!!

明日という概念はなくならへんわ!!!

 

 

 

 

 

 

 

少しばかり、取り乱してしまったようだ。

 

 

 

 

僕としたことが恥ずかしい姿を紳士淑女の皆様にお見せしてしまった。

恐らく、僕のブログを読んでくださっている人が紳士淑女である可能性は低い。

なぜなら、こんなたわいもないブログを呼んでくれるなんてそんな物好きで最高な皆様を紳士淑女というのは違うかもしれない。

 

 

 

敬意を表してむしろフレンドと呼ぼうではないか。

 

 

 

よっ!!フレンドの皆様('ω')ノ

 

 

 

 

 

 

・・・

 

 

 

 

 

 

 

違う。これは違う。

 

 

 

 

 

 

 

おすぎとピーコくらい違う。

 

f:id:bunamato_mosiki:20170126161622j:image 

 

 

 

 

 

 

 

 

関係各所からクレームが入ってきそうな似顔絵である。

これはおすぎ風の人とピーコ風の人ということで処理しようと思う。

 

 

 

 

 

 

とういわけでいい呼び方はないものだろうか。

いいのだよ。紳士淑女のままでも。

しかし、オリジナリティのある呼び方をしてみたいものである。

 

 

 

 

田村ゆかりがファンの皆様のことを「国民」というくらいオリジナリティのある呼び方をしたい!!

 

 

 

そんなことを自問自答しながら今日のブログはここらへんで終わりである。

 

 

皆様、よい呼び方があればどしどし募集している。

よろしくお願い申し上げます。

 

 

 

 

 

そして、次回は真面目に感謝ということについて書こうと思うのである。

 

 

 

 

それではアディオス!!!

f:id:bunamato_mosiki:20170126161149j:image

三日坊主の僕が三日坊主でなくなったおはなし

ブログを書くのは久しぶりになるだろうか。

3日ぶりの更新であると思う。

 

 

しかし、今までの僕ならブログを書いているという行為を忘れて1ヶ月後に「そういえば!」となっていたと思うので僕にとっては大きな一歩であると思う。

 

 

そうだ、あの誰もが知っていて誰もがおいちゃんという愛称で呼びたくなるであろう宇宙飛行士のニール・アームストロングが言っていた。

 

 

 

「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」と。

 

 

 

そつなのだ。これは人から見たら小さな一歩だが、僕自身にとって大きな飛躍なのだ。

 

 

このように自身の行いと名言を絡めることによってさも、自分という人間はいかにすごい人間であるかという誤った錯覚に陥ることが出来る。

 

 

そうだ、これが自己陶酔というやつだ。

 

 

しかし、勘違いをしてはいけない。

僕自身はすごい人間であるとは思っていない。

むしろ、まがいもないまがい物であることを自負している。

 

 

 

クソみたいなライムを踏んでしまった。

これもまた、僕のまがいもないまがい物としての自尊心がこのようなかっこいい言葉を書きたがるのだろう。

 

 

 

ただ、1分ほどは名言と自身を絡めることによる自己陶酔に陥ることを容赦してほしい。

 

 

 

だってちょっとくらいすごい人間だって思いたいじゃない(`・ω・´)

 

 

 

こうやって自分をすごい人間だと錯覚することでこれからもブログを続けていけるような気がする。

 

 

 

とまあ潔くこんなグダグダした感じでこれからもブログを更新して行きたいと思う。

 

 

 

 

 

 f:id:bunamato_mosiki:20170121150644j:image

 

 

 

 

明日は書くよ!

絶対ね、絶対だよ!!

ロックと危ない奴と前前前世のおはなし

人は思ったより見るもの、聴くもの、知るものをジャンル分けして生きている。

 

最近、僕はRADWIMPS「前前前世」を無性に聴きたくなるのだ。

こんなことは今までにはなかった。

中学高校、僕の青春と呼ばれる時代はむしろRADWIMPSなんて嫌いだった。

 

なんだあの中二病っぽい音楽なんて思って聴かぬふりをしていたものである。

僕が汗水たらしてクラブ活動(サッカーであるが)に励んでいた時期はコブクロが好きだった。

今の僕からしたら考えられないほどバラード調の音楽に傾聴していた。

 

いつからだろう。恐らく、受験勉強を始めたころだったであろうか。

ONE OK ROCKが無性に好きになってひたすら「努努」を貪るように聴いていた記憶がある。

 

そこからロックやパンクと言われる音楽しか聴かなくなった。

 

ONE OK ROCK

サンボマスター

かりゆし58

ブルーハーツ

ウルフルズ

BACK HORN

銀杏ボーイズ

エレファントカシマシ

タイマーズ

RCサクセション

忌野清志郎

高橋優

Hi-STANDARD

UNISON SQUARE GARDEN

クリープハイプ

モーモールルギャバン

マスミサイル

ジャパハリネット

スタンスパンクス

 

 

そういったロックのカッコいい人たちが僕の人生の大部分を占めていた。

このころの僕はロック至上主義でロックというものこそが音楽である。

 

 

そう思って公園のベンチなんかでイヤホンを耳に差し込んで、ロックカッコいいと一人でほくそ笑んでいたものである。

 

今思えば、相当危ない奴である。

一人ぼっちでニヤニヤしてていいのは小さな子供くらいである。

大人が思い出し笑いなんかしようものなら、今の世の中は思いのほか厳しい態度で罵詈雑言や陰口なんかを浴びせてくる。

 

 

僕は大人こそニヤニヤして生きていくべきものであると思っているのに。

世の中のそういった態度はなんだか納得がいかない。

 

 

これが人が思いのほかやってしまうジャンル分けというやつなのであろう。

まず、「自分」と「それ以外の人間」というジャンルがある。

そこから「自分が好きな人」「自分が嫌いな人」「どうでもいい人」

というジャンルが出来上がってくる。

 

 

ここから幾重にもジャンル分けというものは派生して一個人でしかわからないカテゴリーの分類が繰り広げられる。

 

 

その中に「公園で一人ぼっちでほくそ笑むやつは危ない人間」というジャンルも存在するのである。

実際、危ない人間であるかどうかなんて、直接話してみないとわからないものである。

僕なんて「公園で一人ぼっちでほくそ笑んでいる」が至って、「善良な市民」であるという謎の自負がある。

 

 

しかし、世の中が決めたジャンルや個人が決めたジャンルに当てはめてカテゴリー分けをしてしまえば「未分類」というジャンルがなくなる。

 

 

以前、書いたことがあるが「人間はわからないということが一番怖い」のだ。

だからわからないことに対して、幽霊だ、妖怪だ、宇宙人だなどと自分の中でわかったつもりであるカテゴリーの中に当てはめる。

 

 

音楽にしてもそうだ、僕はRADWIMPSというのはどこか「中二病」っぽい音楽として青春時代はカテゴライズして生きてきた。

 

 

だから「中二病」であるということが恥ずかしかった僕からしたら近づきたくない存在であった。

しかし、大人になってそのカテゴリーを取っ払ってみるとこんなにも毎日のように聴きたくなるものなのだ。

 

 

 

おそらく、僕の中で「RADWIMPS中二病」というジャンル分けがなくなったのであると思う。

 

 

 

こうしてジャンル分けすることで安心して過ごせる自分がいるわけだが、実際そのものをよく知りもしないで自分の中にあるジャンルに当てはめてはいないだろうか。

人も音楽もちゃんと向き合ってみると自分の中にすっと入ってくるものであるかもしれないのに、ジャンルという壁に阻まれて自分の元へ歩いてこれないだけかもしれない。

 

 

 

ジャンルではなくそのものの価値をしかと見極めたい今日この頃なのである。

 

 

f:id:bunamato_mosiki:20170118113402j:image

このわんこはマルボロというジャンルに分類されている。

サンボマスターが教えてくれた誰かを疑っちまうというおはなし

「僕らはいずれ誰かを疑っちまうから。せめて今だけ美しい歌を歌うのさ。」

 

 

そうサンボマスターが歌っていた。

 

 

日々、人として生きていると心のどこかで誰かを疑ってしまう局面に陥ってしまうことがあると思う。

何を隠そう、僕もその中の一人である。

 

 

人生というものが上手く動いていない時ほど、疑いという凶悪な悪魔が僕らの耳元で艶やかな声で囁いてくるのだ。

「それは果たして、お前の責任か?」

 

 

そうやって他人様を疑い、誰かの責任にして日々をのらりくらりと生きていくことなど造作もないことである。

 

何かあれば、自分の責任ではなく、人の責任にして逃げればよいのだから。

 

 

 

「これは誰誰さんに言われました」

「教わっていません」

「聞いていません」

「あいつが失敗したからこんなことになったんだ」

 

 

そうやって逃げることは誰でもできる。

 

むしろ、心が瀕死の状態に置かれているときはこうやって人様の責任にして、逃げることも必要ではあると思う。

 

そうしなければ赤子のようにか弱く、壊れやすい心というやつはすぐにダメになってしまうから。

 

 

しかし、万事整った状態で人様のせいにして逃げるということはいさささどうなのであろうか。

 

いや、僕は他人のせいにして逃げることが悪いことであるというのを指摘したいわけではない。

 

 

ただ何度もいうが、

 

 

 

 

しんどければ、逃げていいと思う。

 

 

 

 

問題は逃げ続けることであり、逃げればそこにまた帰ってくればいいのだ。

 

もちろん、いろいろな人に迷惑をかけるだろう。

いろいろな人を心配させるだろう。

いろいろな人を悲しませるかもしれない。

いろいろな人を怒らせるかもしれない。

 

 

それでも、自分が折れなければ帰ってきてよいのだ。

人を疑ってしまうことも致し方ない。

 

 

ただ、人を疑い、人のせいにすることは

 

 

格好いい

格好悪い

 

 

 

結局のところ、格好いいか、格好悪いかなのだ。

 

 

格好悪いことをしてしまっても、そんな昔の自分を笑ってやれるくらい格好良くなればよい。

 

 

常に格好いいほう、大変な方を選ぶことは正直言って疲れることであると思う。

 

今は格好悪くても、最終的に格好良くなればいいのだ。

 

 

 

 

 

さて、今日の僕自身は格好いい選択をできるのだろうか。

 

 

 f:id:bunamato_mosiki:20170114131849j:image

この日の僕は格好いい気がするのである。

 

 

 

おしまい